@techreport{oai:grips.repo.nii.ac.jp:00000964, author = {大来, 洋一 and クルマナリエバ, エルビラ}, note = {終戦から1947年初の混乱期においては、鉱工業生産はある程度の回復をいったん示した後、1946年の9月から1947年の2月まで連続して低下した。1947年の3月が危機だと言われ始め、「縮小再生産」を懸念する見方もでてくる状況であった。こうした事態を前に日本政府は1946年12月24日に経済危機突破の基本方針として、1947年度の石炭生産3千万トンなどを目標とする傾斜生産方式を決定した。そのねらいは石炭、鉄鋼の生産を相互循環的に上昇させようというものであった。しかし、傾斜生産方式の重要な梃子として期待された占領軍を介する8万kl重油の緊急輸入の実施がアメリカ側の要因で1947年6月まで遅れた。これが響いて目標の3千万トンは1947年6月時点では実現しなかった。特に鉄鋼は目標の数値の7割程度にとどまり、相互循環的な生産の増加は実現していない。しかるに先行研究では、傾斜生産方式を成功としてとらえるものが多い。確かに1947年の遅い時期からと1948年においては生産が相当の勢いで回復したが、これは、重油の緊急輸入の到着と占領軍が援助をそれまでの食糧から工業生産のための原材料に重点を移したためのものである。また、先行研究の中にはベクトル自己回帰(VAR)を用いて、石炭と鉄鋼(と機械)の間に相互循環的な生産の連動が見られたとしているものがあるが、本稿で行ったVARの分析では、こうした分析は必ずしも頑強なものではない、という結果を得た。鉄鋼の生産は石炭の生産との連動よりも鉄鉱石の輸入数量との連動が強かった。このことは1951年と1955年の産業連関表の比較で確かめられるし、なによりも、鉄鉱石の輸入数量と鉄鋼生産の動きを直接比較することで確かめられる。従って、1947年の遅い時期からの生産の回復は傾斜生産方式の成功を示すものではなく、占領軍、アメリカの援助が効果的であったことを示すものである。ただし、日本政府が傾斜生産方式を打ち出したのはそれが生産回復の決め手となると考えたからよりも、これによって占領軍からの原材料の援助を引き出すことができると考えたからであり、その意味では見事に成功していた。}, title = {傾斜生産方式は成功だったのか} }